その日俺は疲れていた。
ホントめちゃくちゃ疲れていた。
疲れた俺を気遣って夕飯を作りに来てくれた美和を、うとましく思うほど疲れていた。

きっかけは映画を観に行く事だったと思う。
普段これと言ってわがままを言わない美和が、やけにこの映画に固執していて。
そこまで思うならと約束をしたものの、俺はそれほど見たいわけでないし、仕事は忙しいし。
たぶん、精神的にも大分きていたと思う。
今思えば、こんな思考はありえないし。


明日が約束の映画の日だった。
が、ここのところ残業につぐ残業で、泥のように疲れていた。
やっと家にたどり着いたと思ったら、美和がやって来た。スーツを脱ぐ時間すらなかった。
「俺さもう、ヘトヘトなんだわ、だからさ明日、友達とでも行ってきなよ。俺寝てるからさ。」
「・・・え?」
「つーか俺もう限界。送っていってやれないけど、気をつけて帰れよ。」
じゃな、と追い返してしまった。
約1ヶ月ぶりにあった彼女にこの仕打ち。
一歩も部屋に入れずに。
これが原因で美和に振られてもおかしくない行動だった。
そんなことも気付かないくらい、ただ寝たかった。
シャワーを浴びる元気もなく、スーツも脱ぎっぱなしでTシャツにトランクスでベッドにダイブ。
その後の記憶はない。
ただ覚えているのは、信じられないと見開かれた美和の瞳だけだ。



何か暖かいものに包まれているそんな感じがした。
とても癒される暖かい柔らかさ。
なんだ、これ。
ボーと眼を開くと白い壁があった。
よく見るとキャミソールに包まれた、白い胸だった。
顔を上に上げると爆睡している美和の顔。
えーと・・・つまり俺は美和に抱きしめられて寝ていた訳だ。
暖かくて柔らかいのは美和の腕と体だったと。
胸に顔を突っ込んで寝ていたみたいで、少し顔がひんやりする。
いつ見ても綺麗な白い肌に、柔らかい胸。
気がつけば、手は胸を揉んでいた。
何かすごく久しぶりなこの感触に、どれだけ美和に触れていなかったのか気付いて愕然とする。
何か悔しくて谷間に舌を這わし、思いっきり吸い付いた。
ハッキリとついた紅い痕に、ニヤッと笑みが浮かぶ。
手はいまだに胸を揉んでいるけれど、起きる気配はまったくなし。
どれだけ爆睡しているのかというか、それだけ俺に気を許してくれていると思うと、すごく嬉しい。
クチを少し開けて寝るのは美和の癖だ。子供みたいで可愛らしいけど、見ているとこう、ムラムラしてくる。
いかん、いかん!
俺と美和は恋人同士だし、美和の服を引っぺがし、触り放題やり放題、あ〜んなこともこ〜んなこともできる関係だが、それはお互いの愛と同意が合ってこその、素晴らしい愛の行為だ!寝ている人間に手を出すのは、卑怯者のすることであって、俺は断じてそんなことはしない!卑怯者じゃない!ここはさっさと、寝ることにする。それが一番だ。
胸に顔を埋め、細い腰を抱き寄せ、目の前のキスマークに満足して眼を閉じた。
暖かい柔らかさに包まれながら、夢の世界へと。
美和がどんな思いで来てくれたのかも気付かずに。

このとき付けたキスマークを俺が覚えていなかった為に、ケンカになり美和の機嫌を更に損ねるという大変なことになるのだが、それはまた別の話だ。


                                ◆


ちょっと幾らなんでも酷くない?!
疲れているのは分かるし、寝たいのも分かるよ?
でもだからって、玄関にも入れずに追い出すってどうよ?
この買い込んできた食糧をどうすれば?って、違うし。
はっ!これから女が来るとでも?!
だから追い出したんじゃ・・・て、そんな甲斐性があったら私今追い出されていない気がする。
でも・・・・。
あの疲れきった顔・・・・。確実に痩せていたよね。・・・クマも出来ていなかった?
寝る時間もあんまりなかったのかな。
私がいたら、相手をしなくちゃいけないから・・・・。
やっぱり・・・自分の部屋に帰ろう・・・かな。
と思ったそのとき
「大丈夫ですか?」
と、声をかけられた。
気がつくと貴章(たかあき)のマンションから少し離れた街中で、目の前には優しげなサラリーマンのお兄さん。
手にはハンカチを。
なぜ?
「・・・は?」
としか応えられなかった。
意味が分からないし。
「先ほどから、立ち尽くして泣いていたので、心配になりまして。」
え?あわてて頬に手をやれば、濡れている。
いつのまにか泣いていたんだ私。
ショックがでかすぎて。あんな追い出され方をされると思っていなかったから・・・。
頬にハンカチがあたる。
「よほどショックなことがあったんですね。泣いていることにも気付かない程の。私でよければ話だけでもお聞きしますよ。さあ、その重い荷物をかして下さい。近くにいいお店があるんですよ。」
といいながら、食料の詰まった袋をとろうとする。
やだ、ナンパじゃん。
「有難うございます。でも、大丈夫ですから!」
袋を死守して、後ずさりながらお兄さんから離れる。
お兄さんがまだ何か言いそうなので、ダッシュして逃げた。
びっくりした。
こんな買い物袋持っているのに、ナンパってあるんだ。
そんなにモテなくはなさそうな人だったのに、スキがあれば誰でも良かったのかな?
変な人。
袋からネギ出ているのに。ふふっ。
なんか笑ったら、少し心が軽くなったかも。
よし。貴章の部屋に帰るぞ。
見てろよ貴章!
こんなことじゃへこたれないんだから!
さっき泣いたけどね。



マンションに戻ると、明かりはついていない。
音を立てないように、そっと貴章に貰った合鍵で部屋に入る。
びっくりした。
けっこう綺麗好きな貴章の部屋なのに。
靴は脱ぎっぱなしで玄関に何足も散乱しているし。
ここから見えるリビングも、脱いだ服や新聞などで大変なことになっていた。
とりあえず食料品を冷蔵庫にしまい、悲惨なキッチンは、今は見なかったことにする。
貴章の寝室に入ると、ベッドにうつぶせになって寝ている彼を発見。
Tシャツにトランクス姿で。パジャマを着る余裕もないほど、疲れていたらしい。
掛け布団もかかっていない。
ここまで熟睡していれば起きないだろう。
彼をゴロンと転がし、掛け布団を取り出して、彼の体にかける。
寒かったのか、布団を抱き込んでしまった。
驚いた。ここまで痩せていたなんて。
たった1ヶ月会わないだけでここまで痩せるものなの?
それだけ忙しかった、ということなんだね。
でも・・・・・毎日メールくれたよね。私の心配ばかりしてたよね。
自分はこんなに痩せといて・・・。
本当に私のことばかりで。
それなのにあんな言葉が出るほど、疲れていたのに・・・。心の中では、貴章への不満ばかりずっとグルグルしてた。
本当にそこまで忙しいのかとか、何でメールだけなんだろうって。声がききたい、会いたいのに貴方は違うのって。
そんなことばかり。
今日だって休みのはずだったのに、仕事って。ていうか、3連休なのにほったらかしってどういうことよ?!
あまりにむかついたので、イヤミったらしく遅めに訪問してみれば、予想以上の疲れた顔が。
何でもっと早く・・・。私がもっと気を使っていればここまでには・・・ならなかったかなあ。
私、貴方の優しさに甘えてばかりだね。すごい大事にされていたのに。
そんなことにも気付かなかったなんて。
寝顔を見ていたら、また涙が出てきた。



夜遅いといってもまだ22時だけど、掃除機は明日にまわすとして。
しわくちゃになったスーツをハンガーにかけ(クリーニング決定だし)、しまえる物はしまい、洗濯物は脱衣所へ、そこに洗濯機があるからね。
さあ、あとは悲惨なキッチンを。
ほとんどコンビニのゴミだった。まともな食事もしていなかったみたい。食べかけはゴミ箱にいっぱいあった。
その代わりタバコの吸殻はほとんどなかった。あまりの疲れっぷりに、吸う気力もなかったみたい。
うん、これはいいことだ。このまま、やめないかな・・・。
ご飯のタイマーも入れたし、後はもう寝よう。
今日はもう、勝手に泊まっていくって、さっき決めたし。
お泊りセットは置いてあるけど、今日は私も下着で寝ようっと。
普段すると大変なことになるけど、相手は疲れて爆睡中だし、大丈夫でしょう。
肌の方が暖かいっていうし〜。
そのほうが癒し効果もありそうな気がする。
特別に私が抱きしめてあげましょう。
ベッドに入ると、私に気がついたのか擦り寄ってきた。
なんか可愛いよね。こういうことされると。
特に年上がすると。
ふふっ。おやすみなさい。
ゆっくり休んでね。




どこかで音がする。
ああ。炊飯器の炊けた音だ。
あの音好きなのよね。
てっ、朝だね。
あれっ。動けないっていうか、私が抱き枕状態?もしかして。
背中から抱きしめられていて、片手は胸に、もう片方はお腹でがっちりホールドされていた。
いつの間にかキャミの中に手が入っていて、どうして鷲づかみよ?お腹だってキャミがめくれて、素肌にがっちりだし。
なんか、貴章だわ〜と、呆れるやら感心するやら。
それだけ、元気になったということなのかしら・・・・ねえ。
起こさないように腕を引き抜き、ベッドから脱出。
起きるかなと、少し期待したけど起きなかった。
まあいいよね。
じゃ、昨日の続きだ!


いい天気だったので、洗濯物が乾く乾く。
掃除機も絶好調。
やることやって暇になったので、貴章のベッドに潜り込む。
暖かい。
落ち着く〜。
そのまま、寝てしまった。



                                ◆



あ〜良く寝たなあ、久しぶりだ。
寝すぎて頭がボーとしてるなあ。
今何時だ?
15時か・・・。ほんとよく寝たなあ
あとで美和に連絡しないと・・・・て、なんだこの塊。
俺の横にある塊、布団をはぐと美和がいた、なんで?!
いつのまに?
「おい美和、お前いつ来たんだよ。おい、起きろよ、おきろ〜」
頬をペチペチと叩くと、うっすらと眼が開く。俺を確認したのか、ヘニャッと笑いながら「おはよ〜」と。
でもまだ寝ぼけているので、ムリヤリ上半身を起こした。
「ほら、起きろ。起きたか?」
眼をこすりながら
「うん、起きた。おはよう」
と、また笑う。
やっぱ可愛い。寝起きの無防備さって格別だよなあ。いいなあ。
てっ、ちょっとまて。何で笑っていられるんだ?昨日のひどい態度を思い出せば、怒っているはずなのに。
俺だったらあんなことされたら、少なくとも笑っていられない。
俺の言いたいことが分かったのか、少し真面目な顔をして、
「言いたいことはいっぱいあるから。とりあえずご飯食べよう。」
そういってリビングへ引っ張っていかれた。
部屋は見事に見違えっていた。
掃除機もかけられたらしく綺麗だし、ベランダには洗濯物が山のように干してあった。
そして俺の目の前には、最近の食事情に気付いたのか、栄養バランスを考えた色とりどりの野菜たちが、胃に優しく負担にならないように、変身していた。
久しぶりに食べた食事、これぞご飯というものだった。
美味しかった。ただ美味しかった。
疲れきった心が癒されていく、そんな暖かい食事はいつ以来だろうか。
「お腹いっぱいなった?」
美和が笑顔で聞いてくる。
「ああ。美味しかったよ。」
「良かった。じゃ、シャワー浴びてきなよ。昨日お風呂は入ってないんでしょう?さっぱりするよ?」
「そうだな。そうするよ。」
ハイと、手渡されたタオルと服一式、何でこんな至れり尽くせりなんだ?と、疑問が湧いてくる。
その疑問を解消する前に、背中を押され風呂場へ。
まてよ?腹を満たして、シャワーでさっぱりして、どこからも邪魔が入らない状態で、ゆっくり時間をかけて、話し合い?
逃げ道なさそうだな。
そう考えると、ここから出たくないような・・・。
仕事で疲れていたとはいえ、邪険にしたのは俺なんだから、何を言われても腹を据えて、・・・耐えよう。



シャワーから出ると、俺の好きなハチミツ入りコーヒーと美和の笑顔が待っていた。
床には畳まれた大量の洗濯物が。
これは・・・もしかして、長期戦?
とりあえず、美和の正面のソファーに座る。
何から切り出せばと、コーヒーで喉を湿らせると、美和が切り出した。
「貴章、土曜出勤お疲れ様でした。」
「え?あ、ああ。ここのところいつものことだけどな。でも、昨日が最後でこれから元に戻るよ。
今まで相手してやれなくてごめんな。」
「ううん、それはいいの。」
「え?」
「どんなに忙しくても、疲れていてもいつも必ずメールくれたから。あれ、すごく嬉しかったの。
寂しくないといえば嘘になるけど、でもあのメールがあったから。」
そういって笑った美和は、とても綺麗だった。
声を聞きたかったけど、それだと時間がかかるし、会いたくなるだろう。手短なメールに逃げたのに、こんなに喜んでいてくれていたなんて。ごめん。ほんとごめん。
「だから。いつも気遣ってくれていたのに昨日みたいな態度をするなんて、本当に疲れていたんだなって。だから。」
これ以上聞きたくなかった。疲れていたからって、していいことと悪いことがある
しかも、相手は自分を心配してくれていたのに。
「本当に悪かったと反省している。ごめん。美和だって仕事しているのに、俺だけが疲れているわけじゃないのに。
疲れているは、言い訳にはならないし。」
「もういいよ。」
「え?」
「もういいの。」
それじゃ・・・。俺の気がすまない。この世で一番大事にしなければいけない人を、俺が傷つけたのに。
「ひとつ、お願い聞いてくれる?」
「ああ。いくらでも!」
「ふふっ、ひとつでいいの。あのね。昨日みたいに約束が守れないとき、友達と映画見て来いなんて、悲しいこといわないで?」
「え?」
「私はね、貴章と行きたかったの。友達じゃダメなの。貴方が疲れてて、家にいるというのなら私も一緒に、家にいたい。
無理に相手してくれなくていいの。ただ横で座っているだけでもいいの。ジャマしないから。
寝るというなら私も横で寝ていたい。私は貴方と、ただ寝ているだけでも楽しいもの。だから・・・。」
気がつけば抱きしめていた。
俺は本当に愛されているんだと、実感した。余計になんて事をしてしまったんだと、申し訳なかった。
「分かったよ、できる限り一緒にいような。俺も一緒がいいよ。」
美和の手が背中に回り抱きついてきた。
嬉しそうに笑っているので、瞼に、鼻先に、頬に何度もキスをし、誓いのように唇にもキスをした。
それから二人で抱き合いながら、過ごした。
会えなかった間のことを話しながら。
そこでふと気付いた。
「なあ、今日の映画って何であんなに執着していたの?普段あそこまで興味ないだろう?」
「・・・・・・。」
ジトーと睨んでくる。なんだよ。そんな顔をしても、可愛いじゃないか。
「俺・・・、また何か変なこと言った?」
思いっきり溜息つかれたよ。
「映画っていうより、今日が何の日かしっている?」
「今日?普通の日曜だよなあ?・・・・・何かありましたっけ?」
「今日はねえ、貴章が私に告白した記念日でしょう?毎年お祝いしているのに・・・。
だからね、あの映画が見たかったの、貴章と。」
「・・映画のタイトルは?」
「もちろん『めぐり逢い』でしょう?」
あちゃー、ほんとうにやっちまったなあ。
「では、申し訳ないので十分にご奉仕させていただきます。」
脇と膝裏に腕を差し入れて、いわゆるお姫様抱っこをする。
「え?なにを?」
美和の顔が引きつっているのは、気のせいではないだろう。
「もちろん愛のご奉仕を。幸い明日も振替休日で休みだし。寂しかった分も十分させていただきます。」
「い、いや、もう反省したみたいだし、もう十分だから。それに疲れ取れてないでしょう?無理をするとまた、おかしくなっちゃうよ?」
「何をおっしゃいますか。疲れなど美和に抱きしめられて眠ったので、十分回復していますから。
そんな心配などなさらずに十分堪能してください。」
ハッハッハッと笑いながら、足は寝室へ向かっている。
足でドアを開け、閉めた時「ほんと十分だから!」と美和が叫んでいたが、聞いているのは俺だけだし、観念してご奉仕されてください。


                          ―――――完―――――

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